深田久弥の日本百名山では、「九重山(くじゅうさん)」
出典はWikiになりますが、『「日本百名山」は、小説家、随筆家の深田久弥の著した山岳随筆で、初刊は1964年7月に新潮社から出版され、第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した。』と記載されています。
更に、『本著は文筆家で登山家でもあった本人が、実際に登頂した日本の各地の山から自身が定めた基準で、100座を選び主題とした随筆集。』と記載されています。
日本各地にある名山をいくつか登ったことがある人は、少し山登りに興味のある人は、おそらくほとんど知っている「日本百名山」で、95番目となる名山が、「九重山(くじゅうさん)」となります。
しかしながら、この百名山の「九重山(くじゅうさん)」に登ろうと思い、いろいろと調べてみると知らないことが沢山(たくさん)、沢山(さわやま)ありました!!
①「九重山(くじゅうさん)」があるのは九重町(ここのえまち)
「日本百名山」の「九重山(くじゅうさん)」は、熊本県と大分県の県境に連なる山々なのですが、大分県側の所在地は九重町(ここのえまち)なのです。
この九重町(ここのえまち)は、1955年(昭和30年)2月1日に、東飯田村、野上町、飯田村、南山田村の1町3村が合併して誕生しています。
なぜ、この九重町(ここのえまち)が昭和30年に誕生した際に、「九重山(くじゅうさん)」に合わせて、「くじゅうまち」にしなかったのか、正直疑問です。
その答えとして推察されるのは、隣接する大分県久住町(くじゅうまち)の存在があったために、同じ読みの「くじゅうまち」でなく、あえて区別できる様に「ここのえまち」としたということです。
町の広報紙も、九重では、「くじゅう」と誤読されることも考えてか、平仮名表記で「ここのえ」という名前になっています。
②「九重町(ここのえまち)」に隣接した「久住町(くじゅうまち)」
「久住町(くじゅうまち)」の歴史は古く、1889年(明治22年)4月の町村制の施行に伴い、「久住村(くじゅうそん)」が成立し、その後1920年1月に町制の施行により、「久住町(くじゅうまち)」と成りました。
そして、平成の大合併で、2005年(平成17年)4月に、隣接する竹田市、直入町、萩町と合併して、新「竹田市」となり、現在は、「久住町(くじゅうまち)」は消滅しているのです。
今回、九重山(くじゅうさん)の登山をした際、熊本から旧久住町(くじゅうまち)に入ったのですが、その境界の元々あった「久住町(くじゅうまち)」看板に、「竹田市」の看板が後付けされているのが分かります。
③九重(くじゅう、ここのえ)と久住(くじゅう)の起源は?
Wikiによると、その起源は、延暦年間(800年頃)にこの地に九重山白水寺と久住山猪鹿寺の2つの寺院が開かれたことにさかのぼる様です。
近代に入って、山群の北麓に九重町(ここのえまち)、南麓に久住町(くじゅうまち、現・竹田市久住町)が誕生したことから、それぞれの表記が特定の地域に結びつくことになり、地域全体を指す時にどちらの表記を用いるかという問題が大きくなった様です。
現在では、火山群や周辺地域全体を指す場合に「九重山」や「九重連山」を用い、その主峰である単独の山を指す場合に「久住山」を用いるのが一般的となっている様です。
実際、百名山では、「九重山(くじゅうさん)」と表記されていますが、単独の山に「九重山」はなく、「久住山」はあるという、ややこしい状態なのです。
それゆえ、今回の百名山の一座を登頂することを目的とした大分訪問では、「久住山」に登頂することを最低限のタスクとしておりました。
しかしながら、その考えは間違っていた様で、「大船山」や「中岳」、「三俣山」など登るべき山々が沢山あったのでした。
次回、その「九重連山」への登頂記を紹介させて頂きます。
④現在は、混乱を避けるためにひらがなの「くじゅう」を用いることも多い様です!
鹿児島に住む関西人の「いのとも」でもややこしいと思う「九重 vs 久住」問題なのですが、近年では混乱を避けるために平仮名表記の「くじゅう」を用いる場合が多くなっている様です。
国立公園の名前は、長らく論争が続いた様なのですが、最終的に「阿蘇くじゅう国立公園」となっており、今後も平仮名表記の「くじゅう」が使われることが多くなるのではないかと、第3者の「いのとも」は勝手に思っております。
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[…] 初めての「くじゅう山」「九重山」「久住山」その1は、こちら […]
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